編集長 伊集院光の一言 僕は日本テレビで年2,3回放送する「はじめてのおつかい」を見ると泣く。「ウルウル来る。」とかそういう次元の問題じゃない。ビービー泣く。恥ずかしいから一人で見ることにしている。以前自分の担当しているラジオ番組のスタッフの前で泣いていたら「何で泣くのかわからない」と笑われた。僕が人前であまり泣かないタイプなこともそう思わせる原因だろう。それどころか闘病物のテレビドラマを見ながら、ゲラゲラ笑ったりしている僕を見ている(誤解の無いように言っておくが、闘病を笑っているのではない、なんだか『さあ、お泣きなさい』みたいな空気にくすぐったくなるから笑ってしまう。)連中だから余計に不思議なのかもしれない。 「悲しくて泣いているんですか?」「悲しいのではない!感動だ!」「たかだかバスで隣町のスーパーに行って、洗剤と豚のひき肉とかみおむつを買ってきただけのことじゃないですか。」「もういい!お前はそこいらにある棒で自分のこめかみを脳漿が出るまでつついて死ね。」 言われた男は「なんでテレビに映った見ず知らずの子供にそこまで感動できるのに、長年一緒に仕事をしている仲間にそんなことをいうのか?」という表情でこっちを見ているが、全然わかっていない。わかっていないにもほどがある。 僕が言いたいのは「5歳児にとって隣町とはなんぞや」ということだ。5歳児の行動範囲なんてたかが知れている、おそらく世界なんて自分の住んでいる町がすべてくらいに思っている。そんな中の隣町ときたら「あるとは噂に聞いているが、想像もつかないところ」といった感じだろう。孫悟空の時代で言うなら天竺、今の等身大の自分でいうならアマゾンだのアフリカだのそういう場所だ。知識の幅からいえばそれ以上かもしれない。 「5歳児にとって途中で怖い犬のそばを通るとはどういうことだ!?」確かに大人の目から見たらたかだか鎖につながれたシベリアンハスキーかもしれないが、体格比率を忘れている。会社に行く途中に体長10メートルのシベリアンハスキーが繋がれていたらすぐそばを通ることができるか?いいやシベリアンハスキーにも多少修正がいるかもしれない。僕らは長い人生経験の中で犬の習性みたいなものを多少なりとも心得ているが、子供には未知の部分が多い、ということで「アフリカに行く途中10メートルのベルツノガエルが繋がれていたらすぐそばを通ることができるか?」となる。 バスに乗ることもスーパーで大人に話を聞くのも荷物の重さもすべてが未体験ゾーンだ。僕がはじめてニューヨークに行った時は、未知の町でアメリカ人と話すのに緊張して胃腸を壊し、その上公衆トイレに入るのが怖くて、ニューヨークの町を一人で観光しながら数回うんこを漏らしたものだ(この件については長くなるのでまた別の機会で)。 こんな恥をさらしてまで僕が言いたいことが伝わっているだろうか「はじめてのおつかい」の子供たちは大冒険をしている、しかもそれは「お母さんに頼まれたから」に過ぎない。僕にもあんな時代があった。そして今はあれほどは頑張っていない。「もうそんなに頑張るなよ!『病気のお母さんが待ってるから。』って、あれはお前をおつかいに行かせるための仮病なんだよ、な、人間にはできることとできないことがあるから、、、」テレビの前の僕の思いをよそに健一君(5歳)やら隆明君(6歳)は歯を食いしばってやり遂げてしまう。そこに感涙するのだ。 そして今僕は泣いている。なぜならこんなに好きなはじめてのおつかいを見逃したからだ。 (以上、全文1,444文字÷テーマ「初めてのお使い」7文字、206倍返しでお送りしました。) バックナンバーへ募集中! 7文字で50倍返し! 戻る